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チリコシー(、 )は、アメリカ合衆国オハイオ州中央部南ロス郡の都市であり、同郡の郡庁所在地である。コロンバス大都市圏に属している。 2010年の国勢調査では人口21,901 人だった。ロス郡では唯一の都市であり、2003年にアメリカ合衆国国勢調査局が定義したチリコシー小都市圏の中心である。全国アーバーデイ基金からアメリカ樹木の都市に指定されている。 == 歴史 == チリコシーはオハイオ州の初代と第3代の州都である。州の南部サイオト川沿いに位置している。 町の名前は、ショーニー族インディアンの言葉で、ショーニー族5つの部族の1つ、「チャラカサ」(Chala・ka・tha)から採られたものであり、その部族の主要な集落の名前でもあった。ショーニー族とその祖先は、ヨーロッパ人がこの地域に入ってくる以前数千年前から住んでいた。ヨーロッパ系アメリカ人が入植してきたとき、町はナサニエル・マッシー将軍がその払い下げ地に区画割りして造られた。 現在のチリコシーは、紀元前200年から紀元後500年に栄えた古代ホープウェル文化の中心だった。このアメリンディアンの文化は、ロッキー山脈にまで広がる交易の道があった。彼等はサイオト川やオハイオ川の谷に、祭礼用や埋葬用に土盛りのマウンドを築いた。その後、ヨーロッパ人が入ってくるまでこの地域に住んだインディアンがショーニー族などだった。現在のチリコシーはオハイオ州でその名前を持つ場所7か所では最新のものである。なぜならチャラカサが入った所では常に主要な町に付けられた名前だったからである。 アメリカ独立戦争の後にヨーロッパ系の開拓者が入ってきた。バージニア州やケンタッキー州からの移民が土地を探してオハイオ川沿いに西に移動してきた。チリコシーはオハイオが州に昇格した1803年から1810年まで初代の州都だった。1810年にゼインズビルが2年間だけの州都になった。ゼインズビルへの遷都は州議会で通す法案の妥協の産物としてだった。1812年、議会は州都をチリコシーに戻した。1816年、州議会は再度州都を動かすことを決め、このときは州民がアクセスしやすいように州の地理的中心付近にあるコロンバスを選んだ。 チリコシーに移ってくる者には、奴隷州よりも制限の少ない場所を求めてきた解放黒人がいた。彼等は活動的な町を造り、北に来る逃亡奴隷を助けた。南北戦争開戦前に緊張が高まると、チリコシーの自由黒人社会は地下鉄道 (秘密結社)の駅となり、逃亡奴隷を支援した。南部から旅してきた逃亡奴隷はオハイオ川を渡って自由の身となり、その後もサイオト川を遡ってその故郷や追跡者から距離を置くようにした。白人の奴隷制度廃止運動家も地下鉄道を支援した。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「チリコシー (オハイオ州)」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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